えーこれは東日本大震災を受けてアイドリング!!!が開催したチャリティ・ライヴで提唱されたキーワードであり、一日にひとつ、どんな小さなことでもいいから被災地のことを考え、そして行動しよう、というようなことなわけでございます。

あの未曾有の大震災から9ヶ月、年も改まろうという今、震災、津波、そして福島第一原発の深刻な事故、すべてが忘却の彼方へと追いやられようとしていますが、その流れに棹をさし、あまりにも甚大な被災の状況と事後の現状を忘れずにいよう、と改めて思うのでございます。

まだまだ、地域のインフラなどの分野では復興ではなく復旧すらままならない部分も大きいです。例えば岩手県沿岸部の公共交通を担う三陸鉄道は今なお復旧すら追いついていない中で、限られたリソースをフルに稼働させて一隅を照らし続けています。未曾有の津波によって何もかも流された中で奇跡的に見つかった足がかりから伝統の味を復活させようと奮闘する食品製造業者もあります。
他方で、仮にそうした足がかりを得られたとしても余りにも甚大にすぎる被害を営業活動によって取り返す見込みが立たずに廃業や破綻処理に追い込まれる企業も多く、希望の光が被災地に遍く届く、というには程遠い現状があることを忘れてはならないでしょう。

そうして、そうした被災地に生きる人々を支え、生活の復旧・復興へと繋げることは、一人一人の小さな善意の集まりよりも、寧ろ政治の役割であると言えましょう。ところが、国際的な経済活動が国家財政の健全化を強く求める潮流の中で徳政令的な施策を打ち出そうとせず、復旧復興のための財源を広く増税に求めようとする現状があります。

果たして、この緊急事態の中で財政規律にこだわることに本当に意味が、理があるのでしょうか?
勿論、この緊急時だからこそ財政規律にこだわる必要がある、という立論にも相応の説得力がありうるでしょう。それでも、損して得を取るという考え方に立つなら、逆に大きな財政出動と減税によって市中の経済を潤し、より大きな税収を獲得することに繋げる考え方もあったはずです。経済界が財政規律の確立を求めるのは、実は企業活動への課税を低くし、企業ではなく、広く民衆から税金を取って欲しい、という、経済界の身勝手な理屈に過ぎない、という見方があることを顧慮する必要がありましょう。事実、日本において、社会福祉基盤の維持確保のために導入されたはずの消費税が、実際には法人税減税を穴埋めするためにしか使われておらず、社会福祉基盤はどんどん薄くなっている、という状況があることを見れば明白でしょう。

名もなき市民から広く寄せられる小さな善意も大切です。ですが、今被災地が求めているのは、政治のdo one action everydayなんじゃないでしょうか。野田政権が「国民の生活が第一」に立ち返ることを期待するのはもはや望み薄と言えそうな気配が漂う中、連立与党の中でこの約束にこだわり続けている個々の政治家たちを強く支援する必要があるでしょう。政権は民衆によってしか支えることができません。そのことを、鳩山政権の頓挫から我々は学んでいるはずなのです。今や自らが経済界の一員といっていいマスメディアの情報のみに頼るのではなく、広い視野を持って自分の間尺で物事を考え、そして政治に参加することも、またdo one action everydayなのですから。

えータイトルの通りでございまして、発言に対する責任の担保として、あたしは基本的に自分を明かした上で(ブログではハンドルネームを名乗っておりますが、現在はあたしのtwitterアカウントに実名を併記しています)でこのブログを運営しています。

従いまして、拙宅ブログの運営方針についての裁量権の行使として、予てより表明していることではありますが、不特定多数の隠れ蓑に隠れようとする表記名によるコメントに対する返答を拒否する権利があたしにあることを重ねて表記しておきます。

件のコメントに付属していたリンクを追いましたが、あたしには藤原氏の方に説得力を感じますので、必然として該当記事を撤回する意思も持ちません。ま、そういうことですよ。

えー内閣が代わった直後に繰り返されてきた短時日での閣僚辞任劇がまたしても繰り返されたわけでございまして、鉢呂吉雄・前経済産業大臣に対する失望もさることながら、小さな発言を針小棒大に膨らませて報じることで国民に不信の種をばらまき続けて政治不信を増大させるばかりの国内マスメディアに対する失望がいや増していくのを痛感しております。

そもそも最初に報じられた「死の街」発言にしたところで、原発事故に伴う全域避難によって生活の気配が断たれてしまった現地の状況を鑑みれば、だからこそこの街に人々の安心で安全な生活を取り戻す、という決意表明につながる文脈として受け止めることができるでしょうに、メディアの報じ方と、それを受けた野党、特に自民党の反応はまったく正反対でした。

「放射能をうつすぞ」発言に至っては完全にメディア側の捏造に等しいもので、そもそも、現地から戻った直後の大臣に対する取材で「スーツに着替えてないんですか?」などと問うこと自体、本質を捉えて取材しようなどという意思が国内の政治メディアに存在しないことが明白になっただけのことで、この発言を針小棒大に膨らませて報じたマスメディアの反応はマッチポンプであると断ずるほかない。まして、その尻馬に乗って政権攻撃を仕掛けている自民党の反応に至ってはもはや彼らに政権担当能力が存在しないという証左にしか見えないのである。

改めて、民主党代表を務めていた当時に小沢一郎が掲げた「政治とは生活である」「国民の生活が第一」というスローガンに立ち返る必要があることを思う。野田佳彦首相にそれを期待するのは厳しいものがあるやもしれないが、それをせねば政権交代の意義がないのである。

あの夏のマニフェストに立ち返ることが、震災復興につながる道である、ということを改めて提起しておきたい。

えー拙宅のMovableTypeを5.1にアップデートしてから初のエントリになるわけでございますが、本日の最高裁判決で噴き上がってるヘタレウヨどもにがっつり釘を刺しておかにゃぁなるまいな、と思うわけでございますよ。

半ば洗脳のように幼い子どもに「愛国心」を持つことを強いたところで、その子供が長じたときに果たして本当にこの国の一員として、この国をよりよくしよう、という意識を持ってくれるんだろうか? という疑問を持つことなく、法令で教員に国旗国歌をラバースタンプ的に指導をせよ、と命じることが果たして本当に愛国心を醸成することに資するんだろうか?

本当に愛国心を涵養しようと思うならば、まずは隗より始めよ。この国を今支えている大人たちが、子供たちが心から尊敬することができるような姿を、背中を見せることから始めねばならんのではないだろうか。

民衆の側から自然に、澎湃と湧き起こるような愛国心でなければ、本当に国家を支え、躍進させる力にはならないのだということを、日本の国民はあの1945年の夏、尊い、陸海軍将兵のみならず、少国民として国体を支え、陸海軍を支えた数多の民衆の多大すぎる犠牲を糧として学んだのではなかったか。

たとえ最高裁判所が「教職員に対し、学校の式典において国旗掲揚・国家斉唱時に起立して斉唱に参加することを命じることが合理的であり、適法である」と判決したとしても、愛国心というものの真価がいかなるときに発揮されるのか、といった本質は些かも揺らぐことはないのだ、ということを改めて自覚しておく必要があろう。

真の愛国心とは、国家権力や大人や組織、あるいは力のある個人、そのいずれにも強いられることなく、民衆が自然と国家を支えんとして立ち上がるときにこそ生まれてくるものである。

えー今日日のケータイにはワンセグなるテレビ視聴機能が実装されていることが多いわけなんでございまして、かつ今回の東日本大震災を受けて、災害時の情報収集機能としてのワンセグが重要視されつつあるように見えますな。
で、あたしは今でも頑なにワンセグはケータイには不要な機能だと断じているわけでございまして、その信条には今般の大震災を経ても些かも揺らぐところはござんせん。

さて、ここで一つ思い出していただきたいムーバ端末がございます。ソニーエリクソンが投入したRADIDEN、SO213iWR。FMラジオ機能を搭載する携帯電話端末はいくつかございましたが、AMラジオ機能を実装した機種は古今東西未だにこのRADIDENをおいてございません。勿論ムーバなので来年3月以降は携帯電話としては使えなくなってしまいますが、どうして(端末側においては)最小の消費電力でマスメディアにアクセスできるAMラジオを実装しないのだろう…という素人的疑念が今でも払拭できないんですな。

多分にAMチューナ部が携帯電話の電子機器から発するノイズを拾いまくるために技術的な難易度が高いんでしょうが、それにしたって、何年も前のムーバ端末にできたことが現代の進化した携帯電話にできないはずないでしょ。電力を食わないということは、それだけ緊急時の通信のために電力を温存できるメリットにもつながるわけで、ワンセグのような液晶表示にも電力を食う機能を実装するくらいならAMラジオを実装してくれた方がずっと有用だと思うの、あたしだけか?

なお、チューナの操作のために液晶画面を使うだろ、というご指摘があろうかと思いますので、電子チューナに拘るならモノクロのサブ液晶、拘らないならごく安価なAMラジオのようなアナログなチューナを実装する手もある、ということを言っておきましょう。モノクロ液晶はバックライトなしでも一応使えますからね。

えー、あたしは実は国民総背番号制度とペット税に大賛成だったりします。国民総背番号制度は租税の公平性の担保に繋がりますし、ペット税によってペット飼育のハードルを上げることは、まっとうな躾けすらできない飼い主を大幅に淘汰し、ペット飼育に対する意識を問い直すいい切っ掛けになると考えています。

ペット税反対派や飼い主の危惧する「ペット税によって生じる新たな飼育放棄」に対しては、いっそ刑事罰を導入するべきだと言い切りますし、それによって放棄された元ペットは保健所が駆除なり、新たな飼い主を探すなりの現行システムで対応可能。誰が悪いか? 一義的には放棄した元飼い主だけど、ペット飼育へのハードルを下げまくった日本社会全体も責任を免れない。ついでに、動物愛護の行きすぎはエゾシカの結果を見ればどうなるかも自明。飼育側だけではなくペット販売業へも厳しい免許制度と刑事罰(罰金刑などという生ぬるいものではなく、最低でも3年程度の懲役)導入による法規制の強化をあたしは強く求めます。命を育て守り、社会に適合させていく意思と覚悟のない飼い主はどんどん淘汰しなければならない。個人的な感情をいえば、日本国においては最早ペット飼育を原則禁止にして欲しいくらいだ。そのほうがずっと動物愛護にも繋がるでしょうからね。

そいでもって国民総背番号の話。そもそも社会生活を営む、ということは、すなわち完全なプライバシーは保証されない、ということでもあると思うんですわ。自分のすべての行動をプライバシーとして秘匿したい、というのであれば、どうぞ引きこもって、一切の消費支出をしないでくださいな。そうすれば、完全なプライバシーが保たれるでしょう。その結末は保証しませんけど。

確かに消費傾向を辿ればその人物の為人が追えます。あたしはその分野の専門家ではありませんが、これがマーケティングというものの基本的な原理であろうことは推測がつきます。ですが、それはプライバシーなんでしょうか? あたしも含めて、確かに知られたくない物事のための支出をする、ということはありますわな。しかして、秘密ってぇものは、増えれば増えるほど脆弱性が増す、というリスクをはらんでいますし、増えた秘密を保全するコストが保全することのメリットに見合わなくなっていくという性質もありましょう。何がプライバシーで、何が日常の公開されて問題ないことか、ということを厳しく見つめて仕分けていくことって必要なんじゃないかなぁ…と思うのですよ。プライバシー保護に血道を上げているこの国の現状を見るに、何がプライバシーだろう、という問い直しがないことが怖い。

国民総背番号は徴兵制への一里塚だという意見。確かにそういう側面はあります。租税・福祉・住民登録を一元化できるわけですから、そこから、年齢や身体条件などで徴兵範囲をごそっと指定してやれば簡単だという。ところが、日本国にはそもそも世界でも稀なる戸籍制度ってぇもんがありまして、兵役に耐えない身体条件のあるものをはねるのにはちょいと手間がかかりますが、戦前、実際にこの国に徴兵制が敷かれていた時代のことを考えて頂ければ、国民総背番号でなくても徴兵することが容易なのは自明。更にいえば、欧米諸国は戸籍制度ではなく、個別住民登録の制度にあってさえ普通に徴兵制が運用されている国もある。

なれば、租税の公平性、福祉の適切な運用(死んだ人間を生きていることにして年金を不正に受給し続けるような犯罪や、「消えた年金」などは国民総背番号が導入されていればある程度防げたと考えます)などのメリットがある国民総背番号を導入することに躊躇うべき理由はないと思いますが如何?

えー報道されておりますとおり、民主党の小沢一郎・元代表の政治資金管理団体「陸山会」の土地取引にかかわる事件(とされている件)に関連して、小沢氏の民主党員としての資格を(検察審議会議決に基づく起訴によって提起された訴訟の)判決が確定するまでの間(実質的に無期限)停止する、という処分が民主党執行部によってくだされる運びとなったわけですが、先般上告を退けられて収監された鈴木宗男前衆院議員といい小沢氏といい、本当に国民のために粉骨砕身してきた政治家を葬り去り、北方領土問題に関するロシアの態度硬化を招いた菅政権の閣僚たちのような無能な政治家がのさばり続けることに心底から腹を立てているわけでございます。

さて、この陸山会をめぐる事件(のようなもの)。そもそも、政治資金管理団体を含めて一般的に政治団体には法人格がないこと(つまり、土地取引の当事者たり得ない)や、今回、小沢氏の秘書のための寮を建設するための土地として取得した件の土地がもともとは農地であり、これにかかる地目変更などの手続に時間を要すること、そのほか、情報は巷に溢れておりますのでここで繰り返すことは致しませんが、何ら事件性もなければ、政治資金規制法の所管省庁である総務省の見解として土地取引について、法律上必要な報告が遺漏なく行われていれば、時期の多少の前後は問題ないとしていることなども踏まえれば、そもそも検察当局が何度も捜査を重ねてなお事件性を問えないとして起訴するに至れなかったケースを「市民感覚からの指摘」なる金看板を掲げた検察審議会が密室的な議決を持って公訴を提起したとして、果たして有罪を立証しうるものであるのか大いに疑義があるところでありましょう。

斯様に司法当局たる検察庁による直接の起訴とは性質が異なる今回の起訴の事情を一顧だにせず、言わば小沢憎しという感情だけをもって小沢氏の党員としての資格を停止しようとする現在の民主党執行部が果たして本当に民主党という名に値するのか。

そもそも2009年夏、衆議院議員総選挙において「国民の生活が第一」という力強い信条を掲げて選挙戦を闘う体制を作り上げたのは、当時の民主党代表であった小沢氏を中心とする民主党執行部であり、現在の民主党執行部や菅内閣の閣僚の中にも、その中枢を占めていた人物が多数いたことをあたしははっきりと記憶しています。であれば、政権交代という果実を齎したのはそもそも小沢氏の指導力に拠るところが大きいのであって、言わば現在の菅政権、そして民主党執行部は恩を仇で返すことに何らの羞じらいを持たない人非人の集まりだと指弾されても致し方ないと言わざるを得ないでしょう。事実、菅政権は「国民の生活が第一」という、今回の政権交代を象徴するモットーすら捨て去って何ら羞じるところがないではありませんか。

消極的と積極的と、時期による濃淡はありましたが一貫して民主党を支持してきたあたしではありますが、民主党を支持できる要素が次々に破壊されていく現状を前に、異議を唱えずにはいられません。09年衆院選を民主党と共闘し、北海道を拠点とする地域政党ではありますが、代表である鈴木宗男氏を塀の向こうへ連れ去られた今もなお「国民の生活が第一」の旗を力強く振り続ける新党大地の党員になったことも、異議表明の一つです。

鳩山由紀夫前首相を支えきれなかった力不足は、今でも悔いて悔いて、心の中でじくじくと痛む古傷の一つになりつつあります。だからこそ、鳩山前首相の「裸踊り」に続こうではないか、と提唱しているのです。あたしとて、これでも人間であるつもりです。なればこそ、60年以上も日本の安全保障を支え、一人で痛みを抱え込んで来た沖縄の痛みをしっかりと踏まえ、在沖縄米軍海兵隊の内実を率直な言葉で語ってくれた鳩山前首相の「裸踊り」に呼応せずにはいられないのです。

これ以上、我々から有為の政治家を奪わないでくれ。我々国民と共にあろうと奮闘努力を重ねる政治家を殺さないでくれ。そして、国民の生活が第一、の旗を力強く振り続けようとする政治家を支え、育てる努力が、我々有権者にも強く求められていることをしっかりと認識し、その環に加わろうではありませんか。それが、鳩山由紀夫前首相の「裸踊り」に呼応し、小沢一郎・民主党元代表の言う「自立と共生」へと向かう道ではないだろうか。

えーこれはtwitterの中で映画監督の藤原敏史さんが仰っていたことでして、なるほどなぁと合点がいったのでblogでも紹介して広めようかという試みでございまして。

そもそも、差別、という表記は当用漢字の中に「蔑」の字が入っていなかったことに因る当て字であり、本来は差蔑、相手の、自分との差異を蔑む、ということなわけですから、正しく表記することによって区別と差蔑の差異がはっきりとし、混同する心配もなくなろうというわけです。

蔑視する、という表現を普通に使うわけですから、差蔑、と書くことに何らの問題もないですよね。

えーのっけから大上段に構えてしまうわけですが、twitterのタイムラインでそういった話題になりまして、あたしの思うところを、140字の制限から解き放たれるところで披瀝しておかにゃあかんなぁと思った次第。

てなわけで、一番の根本から。

・自分が見たくない表現を行う自由を認めないで、表現の自由を擁護することはできない

考えてみればごく簡単に解る当たり前のことで、ある表現は認める、ある表現は認めない、という線引きをしちゃえば、いつでも簡単に線の位置をずらして、自分が求める表現を規制することができる、っていうことなんですよ。何事も「明日は我が身」という想像力を巡らせる必要があるわけですよ。だからこそ、表現の自由を擁護しようとするときは、自分が嫌いな、見たくない表現をする自由をまず擁護しなくちゃいけない。

・表現の自由は、個々人の良心にのみ由来するものである

これもあたりまえのことで、基準を法令に求めてしまえば、それは権力によって容易に規制を敷かれてしまうことにつながり、かくて時の政府を批判することすら許されぬ全体主義への道をひた走ることになるわけです。ゆえに、民主主義を標榜する以上、表現の自由は個々人の良心にのみ由来し、個々人が良心をもってそれを行使することが求められるわけです。他方、見たくない表現は見ない自由を行使すること、表現によって名誉や感情が傷つけられたと感じたときにはその表現者に抗議し、あるいは訴訟などの手段によって闘争することも大切ですが、それは自分自身(と、その訴訟代理人たる弁護士)の手によって行われるべきであり、立法的な手段に依存してはいけません。立法に依存することは、すなわち自分の人権を国家権力に白紙委任することに他ならないのですから。

このテーマについても、五月雨式に不定期に続く…と思います。とりとめもなく、とりあえず今宵はこのくらいで。

えー先頃、収賄事件に関する上告が棄却され、正式に有罪判決が確定となった段階で衆議院議員を失職し、収監されることとなる鈴木宗男衆議院議員の(特に自民党を離れてからの)政治的な志を守り広げる一翼を担うお手伝いができればと、思いきって新党大地への入党手続に踏みきったわけでございます。

そもそも、あたし自身の政治的な立ち位置の基本は所謂社民リベラルというやつで、市場原理に基づく自由主義経済の基本は尊重するが、その行きすぎによる弊害を補正するべく、適度なレベルの行政による各種の規制・保護施策を充実させ、高福祉・高負担の大きな政府路線を機軸とするものです。そんなあたしが、なぜ民由合併によって民主党に加わった小沢一郎氏を支持し、更に鈴木宗男氏を支持するに至ったのか。そんな「吾が転向」を、徒然なるままに少々語ってみようかなという次第。

基調として、自民党時代は市場原理主義的・軍備拡充主義的なことを言っているように見えた両者の政治的な立ち位置が、それぞれに自民党を離れてからの時間を経てこちら側に入ってきたように感じられたことが、まず大きな要素としてあると思います。たとえば小沢氏は「一兵卒として」民主党に加わった当初、横路孝弘・現衆議院議長の政策研究グループと政策協定を結び、その中で「自由主義経済の基本をきちんと保持しつつ、その行きすぎによって生まれる弊害から民衆を保護する力が政治だ」というような認識を深めて、現在の「適切なセーフティ・ネットをしっかりと整備した上で、市場経済の原則に基づいて国家・国民の経済をしっかりと発展させていく」というようなスタンスを確立していったのではないかと思われます。一方の鈴木氏も、自民党を追われ、国会をも離れて浪人暮らしをする中でアイヌ民族の問題に積極的にコミットしたり、政治の光が当たらないところへの視座を深めていきました。

こう書くと陰謀論のように読まれてしまうやもしれませんが、政治・経済の中枢を担うエスタブリッシュメントにとっては、こうした、現状に足りていない部分をクローズアップさせ、従来の既得権益をぶち壊そうとしている(ように見える)政治家が政治的な実力を高めていくことは面白くないことでしょう。かくて、両者とも「政治とカネ」にまつわるスキャンダルにまみれさせられていくことになりました。
とはいえ、小沢氏の問題については捜査のプロである検察が何としても立件させるべく徹底的な捜査を長期間にわたって繰り広げてなお、立件できるだけの証拠を積み上げることができないほどにクリーンな状況であったことが解っています。他方、最高裁判所への上告が棄却され、その逆転がかなわないであろう状況の中にある鈴木氏についても、果たして本当に捜査が十分かつ正当に尽くされた上でこの結論に至ったのか、という疑念が実は残っています。

そして、現在の民主党の中には、かつてあたしが熱烈に支持してきた新党さきがけのDNAが色濃くあるわけですが、さきがけの時代には輝いていたさきがけ出身の民主党議員たちが、政権を獲得して以降急速にその輝きを鈍らせてしまっている現状もあります。たとえば米国の圧力に屈し、政権の座を追われてしまった鳩山由紀夫前首相、政権交代を実現させた09年衆院選のマニフェストをアッサリ撤回して、政権政党であった当時の自民党と何ら変わらないような政策を次々に打ち出す菅直人現首相。 民主党の中であたしが特に嫌っている前原誠司国土交通大臣が実はさきがけ出身だった、ということも正直驚きですが…かくてあたしが支持してきたさきがけの政治的な寿命はここでついに完全に終わってしまったのです。

もう一つ、あたしが小沢氏や鈴木氏に期待を寄せるようになった大きな要素がありまして、二人とも「どんなに声望が高まった状況にあっても、一兵卒としての闘いを求められればそれを黙々と果たせる」ということです。自らが党首として率いた自由党を解散させるかたちで民主党への合流を果たしたとき、あえて無役の一議員として、一歩控えた立場から自分の経験を若い議員たちに伝え、民主党の実力を高める貢献をしてきた小沢氏。院内会派に所属しない無所属議員として、黙々と質問主意書を積み上げ、国会の中でもなかなか取り上げられないテーマを鋭く追求し続けてきた鈴木氏。常に自分がヒーローであろうとするのではなく、国民とともに政治を進めていく、という、民主主義体制に於ける政治家の必須要件をしっかりと備えていることが、あたしが両者の支持者に転向する後押しをしたのではないか、と分析しています。

(この記事シリーズは不定期に続きます、多分。)

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